「ミハイロフスキー劇場バレエ 新春特別バレエ」 東京国際フォーラム

「ミハイロフスキー劇場バレエ 新春特別バレエ」
東京国際フォーラム ホールA 2016年1月2日

 新春早々、ミハイロフスキー劇場バレエ「新春特別バレエ」に行ってきました。個人的には年度末のギエムの横浜最終公演の抽選(立ち見席)に外れてしまった分の振り替え観劇・・・。ミハイロフスキー劇場と言ってもピンと来ないのですが、旧レニーグランド国立劇場の名称変更です。かつては、ショスタコーヴィチの「明るい小川」(バレエ)や「鼻」、「ムツェンスク郡マクベス夫人」等の問題作の初演を行い”ソビエトオペラの実験室”と呼ばれた革新的劇場だったのですが、この日の演目は「クルミ割り人形より第2幕」、「白鳥の湖より第2幕」、「ローレンシア抜粋」という古典的三演目でした。

 東京国際フォーラム・ホールAは初めて入ったのですがとにかくでかいホールの印象。この日は2階席を閉鎖し1階席だけの公演。客席の底面がロビーの天井になっている構造にちょっと驚きたり、ホール内の壁面がほぼ金属系で、生オケの音響的にはどうなんだろう?と思ったり。この日も貧民席にて1階席最後部の最前列。この日のお客は、裕福な方々と貧民な方々とに二分化していたようで、私の前の普通席はがら空き。おかげて前席の方々の挙動に惑わされることなく平穏に観劇できました。

 最初の演目「クルミ割り人形より第2幕」は衣装がカラフルで華やかな印象。演出は舞台の背景は幕を吊るしただけの簡素なものですが、演者の前面に半透明幕をさげて雪の降っている映像を移す等、映像的工夫は少々あり。主演(マーシャ(クララ)、クルミ割りの精)のアンジェリーナ・ヴォロンツォーワが童顔で可愛らしいくて好印象。バレリーナ達の技術は総じて高い印象。最近、クララを子役にし、クルミ割りの精と踊り分ける演出も多いのですが、ヴォロンツォーワだと両方やっても全く違和感のなくて良い感じです。ただ、何か全体にぬるーい雰囲気が漂っていて、演出上なのか演技のせいなのかそれとも私の認識不足か、王子とネズミ達の戦いの場面でもそこが戦いの場面だったというのを気づかないくらいの演技、お客も評価に困って拍手しにくい雰囲気は漂っておりました。

 「白鳥の湖より第2幕」はオデットがアナスタシア・ソボレワ、ジークフリートがファルフ・ルジマトフ。ルジマトフは一昨年、キエフバレエの来日公演で客演する予定だったのが、政治的問題で来日できななく見る事が出来なかったということがありましたので私も今回が生初見。2幕は湖のほとりの場面で、有名な4羽の白鳥や王子と白鳥のアダージョがある場面。ソボレワは2幕だけの演目であるのにも関わらず、悪魔ロットバルトと王子の間で苦悩する表情を終始湛え、役になりきっているのが印象的。技術も高い方のようですがマリインスキーのロバートキナなとと比べてしまうと・・という感じはします。ルジマトフは、オデッットの事を思う一途な王子というより、フェラーリやランボルギーニでも乗り回す金持ちのイケメン的なオーラでちょっと・・という感じあり。パンフレットを見たらこの方、このバレエ団の芸術顧問をやってらっしゃるようで、ま、そういう大物オーラなのかもしれませんが。この日の演出は2幕では王子の目立つ踊りが無いようで、最終的にオデッットの腰を回している腰回し職人の印象しか持てなかったのは少々残念。コール・ド・バレーは、ほぼばらばらで、マリインスキーあたりのレベルを期待すると何じゃこりゃのレベルなのですが、ウイーン国立劇場バレエをさらに下回る感じです(家にある昔のDVDを見ての個人的感想です・・・)。ま、このバレエ団はモダンとか創作物が得意という話もあるので、古典は得意ではないのでしょうか??

 「ローレンシア抜粋」はこの日、一番力が入っていたと思われる演目。ソビエト時代の代表的な演目との事で1939年初演。作曲はA・クレイン。筋書きは、簡単にいうと戦いに勝って凱旋してきた騎士団長の傲慢(愛し合う主人公のオーレンシアとフロンドーソの中を裂き、ローレンシアを奪おうとする)を民衆が力を合わせ倒すという勧善懲悪話。この日は全編の中から、騎士団長の凱旋を喜ぶ場面、オーレンシアとフロンドーソの結婚式の場面、騎士団長に民衆が勝利し喜ぶ場面が抜粋されたと思われるが、いずれも民衆が中心で群舞、キャラクターダンスがメイン。フロンドーソ役のイワン・ワリシーエフがマッチョな太め体系でちょっとびっくりするけど、動きは軽くジャンプも立派(カーテンコールではジャンプで幕前に出てきて観衆を沸かせていた)。ダンス的な見所はあまりないような気がするけど、娯楽的には良質な演目ではあるような気がするし、バレリーナも前二演目のようなゆるーい感じではなく、やる気がみなぎる踊りぶりで見応えはありました。音楽はファリャやラベルなどの近代音楽のいいとこ取りの音楽のような気もするけど、マリインスキーで見た「愛の伝説」に比べると天上的な上質感。オーケストレーションは上手いね。

 オケはミハイロフスキー劇場管弦楽団、指揮はバレンティン・ボグダーノフ(当劇場の常任指揮者)。オケは在京の日本のオケに比べると少々レベルが下かな、と思われますが安定した演奏ぶり(といっても事故はそこかしこで起こっていましたが・・)。指揮はベテランらしい統率力のある指揮ぶりで、「クルミ割り人形」の幕切れで思わず拍手をしたくなったのはこの指揮者の盛り上げが上手だったからだと思われます。
現地では、古典物も新演出を行って賛否両論とかいう話もあるので、苦手そうな古典的な演出ではなく、モダンな物を持ってきたら見てみたいと思わせるバレエ団ではありますね。

ミハイロフスキー劇場バレエ2016(旧レニングラード国立バレエ)

マリインスキーバレエ鑑賞記

11月28日(土)、11月30日(月)、12月5日(土)と贅沢にも、マリインスキーバレエの日本公演、3演目を見てきました(いずれも貧民席・・・)於:上野の東京文化会館。

11月28日は「愛の伝説」音楽:アリフ・メリコフ 振付:エリー・グリゴローヴィチ
不治の病で余命幾ばくも無い妹の事を悲しく思った女王が、僧と取引をし自分の美貌と引き換えに彼女の命を救う。しかし、自分の密かに愛する男性と妹が恋仲になった事を知り激怒した女王は、男に山で水路を開く労役を命ずる。しかし、彼無くしては生きていけないという妹の懇願で、山を下りるように説得をしに行った女王と妹は、山で民衆の支持を得て水路を開く事に希望を見いだした彼を諦めることにし、山を降りてゆく・・といった内容。前半の兄弟愛やら恋の与太話みたいな設定が、後半の民衆の希望をかなえる力強い男性みたいな展開で見事に吹っ飛んでしまうという、如何にもソビエト共産党が喜んだであろうストーリー展開。音楽もほぼ大衆迎合的に見事に単純化された反知性主義(?)的印象が強いもの。1961年初演のこのバレエは、ある意味社会主義的リアリズムの模範的な作品なのかもしれない。振り付けも群舞が中心で特にみるべき点もないもの(のような気がするが、この辺はあまり詳しくない・・)。まあ、個人的には社会主義的リアリズムは、ハリウッドへの一本道である事が理解できた事と、他の日の作曲家、プロコフィエフとチャイコフスキーがいかに素晴らしい作曲家であるかを再認識できた事が最大の収穫かもしれない。

11月30日 「ロミオとジュリエット」音楽:プロコフィエフ 振付:ラブロフスキー
仕事の関係で、会場入りがギリギリだったので幸運にも1F席の後ろに通された。バレエのの様に水平視線でみなければジャンプの高さも判らないような演目の場合、5F席の様な高所からの鑑賞は致命的だし、ピトからのオケの音も直接音が多くなって少々バランスが悪いので、通常の音楽会よりもバレエの公演は貧民席の貧民度はより高く、今回の1F席への移動はとってもありがたい話なのであった。雑務から芸術の世界に突然飛び込んだ事の落差は、芸術鑑賞上の評価値を上げる効果があるのか(?)、何からな何まで美しく感じられるのだけど、まあ「愛の伝説」を見た後なのでっていうのもあるのですがね・・。1938年初演のこのバレーも、当初はハッピーエンドにさせられたりとか色々あったようですが、今回の振り付けは初演時のものでエンディングは通常の悲劇。作曲家と密接に議論をしつつ行った演出の為か、音楽とバレエが一体になったドラマ性が際立った内容で、音楽や音響も多彩だが統一性も持つ、ある意味高度な劇音楽作曲家としてのプロコフィエフの腕前の凄さとを見せつけられる事になった。振り付け師の非凡さと共に。

12月5日 「白鳥の湖」音楽:チャイコフスキー 振付:プティパ、イワノフ
「白鳥の湖」も調べてみると初演は4幕ものだったのが現在は3幕になっているものもあったり、王子と白鳥(オデット)が2人とも死んでしまう悲劇(初演)、魔法が解け2人で幸せに暮らす、2人は永遠の世界(天上)に旅立ってゆく・・等色々あるようで、チャイコフスキーが作曲時に想定したものとは相当異なる使い方をしている曲もあるのではないかと想像する。この日の演出は3幕物で悪魔を倒してのハッピーエンド。前二演目とはうって変わって客席は満員御礼の様相。バレリーナに興味がある方達にとっては、個人技が遺憾なく披露することが出来るこの演目に対する関心が特に高いのかな?と思った。この日、オデッットを踊ったウリヤーナ・ロバートキナは安定の技術と深い表現力で聴衆を魅了ていた。個人的には以前、バレエフェスティバルで見た彼女の白鳥が、演技というレベルを超えた白鳥に自己同化しているかのような所作の印象が強すぎて、この日はそれほど感動しなかった。しかし、そもそも全幕を踊るのと(黒鳥も踊る訳だし・・)一部を踊るのは力の入り方も違いますよね。

演奏は指揮がアレクセイ・レプニコフ、演奏はマリインスキー歌劇場管弦楽団。指揮は誰かの副指揮でもしているかのような借りてきた猫みたいな指揮ぶり。決め所は当たるも八卦当たらぬも八卦。たまに引っ張ろうとして振るとオケが後から三々五々ついてくる。オケは弦楽器や管楽器(特に金管楽器)の音色が美しく良く響く音。日本のオケがピットに入った時とこうも音が違うか?という位印象が違う。ちなみに同時期に本国ではオペラをやっているようで、オケは引っ越し公演では無く分割公演の様。オケの層が厚いという事の様なのですね。

開演前には楽屋口で散発的にサイン会めいたことも・・・

「ベアトリスとベネディクト」鑑賞記

「ベアトリスとベネディクト」というベルリオーズの最後の大作となった二幕からなる短いオペラを見てきました。(セイジ・オザワ松本フェスティバル)

もともと小澤征爾が指揮する事になっていたこのオペラ、彼の骨折によりギル・ローズという日本ではまったく無名の指揮者が振る事になったわけだが、事前情報ではボストンのオペラで旺盛な活動をしている切れ者の指揮者との事で逆に少々楽しみになったりしていた。シェイクスピアの「空騒ぎ」をベルリオーズ自身がフランス語で台本を書いたというオペラ・コミークは、ベルリオーズの音楽がどこか大作志向的な大仰な作風のイメージのせいか、事前にはイメージがつかみにくかったのだが、聴いてみればとても楽しめる大衆的な作品である。作曲者による台本は、演出のベルシーズがプログラムに書いていたが、”すべてが終わっている所から始まる”(一幕が開くと戦争が終わった所から始まり、エローとクラウディオの結婚は決まっており、二幕が開くと婚礼の宴は終わっており・・)という不思議なリブレットで、劇中ではほとんど重要な話の展開が無い。ストーリーの中心は結婚に否定的なベアトリスとベネディクトが、周囲の画策で愛がないのを確認して結婚するという他愛の無いものだが、意外にもベルリオーズの音楽が多彩で、例えば二幕での婚礼の喜びを歌う合唱や大団円での神聖な表現等、オペラの定番的表現にそったものではあるにしても、台本の単純さをあがなうにあまり有る音楽表現に満ちているのが興味深い。

ギル・ローズの指揮は、日本式の打点、図形がはっきりした現代的な指揮ぶりとも、ヨーロッパ的な先入、早振的指揮法とも違う極めて自然体の指揮ぶりで、オケも序曲からのびのびと演奏している感じ。彼のアイディアかどうかは判らないが、一幕の合唱曲「グロテスクな祝婚歌」で歌われる突拍子もない音程の歌は、原曲を逸脱したほぼ現代音楽的な音の外し様で聴衆の大きな笑いを誘っていた。歌手陣はベアトリスに予定されていたヴィルジニー・ヴァレーズが体調不良のため降板となり、フランス出身のメッゾのマリー・ルノルマンがピンチヒッターをつとめたが、少々声の伸びが悪く固い印象。カーテンコールの際も少々表情が硬かったのは代役の緊張のせいだったのだろうか。ベアトリスを脇で支えるエロー役のリディア・トイシャーとウルスル役のキャレン・カーギルの両歌手が、第一幕最期で歌うノクターン(愛の素晴らしさを訴える)のデュエットは、極めて耽美的な至極の美しさで聴衆を魅了する。他の箇所でもこの二人の伸びやかな声の美しいハーモニーは別格の美しさがあった。道化の楽長役のジャン・フィリップ・ラフォンはこの役自体が判で押したような杓子定規な役ではあるものの、会場を多いに沸かせる好演。合唱のレベルも高く、二幕の袖合唱「遠くからの合唱曲」がとても美しく、静かで敬虔な結婚の祝いの場に美しい花を添えていた。

総じて演奏は起伏に富み、このベルリオーズのあまり知られていないオペラを面白く聴かせていた印象がある。カーテンコールの際に、指揮のギル・ローズよりもサイトウキネンオケの方に大きな拍手があったのは私的には少々不満。巨匠の代役を見事にこなした彼には、大きな拍手を送ってあげるべきと思った聴衆はあまりいなかったのだろうか?

セイジ・オザワ松本フェスティバル
ベルリオーズ:「ベアトリスとベネディクト」
2015年8月27日(木)まつもと市民芸術館
指揮:ギル・ローズ
演出:コム・ドゥ・ベルシーズ
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
ベアトリス:ヴィルジニー・ヴェレーズ
ベネディクト:ジャン=フランソワ・ボラス

韓国映画「建築学概論」を見る。

 以前、ネットでこの映画の話題が流れているのを見て、ドラマのタイトルとしてはずいぶん固いタイトル名だなと思った記憶がある。特にそれ以上の関心を持つ事も無かったのだが、先日、レンタルショップで偶然このDVDを見つけたので、ちょっと借りて見る事にした。事前知識としては、miss Aのスジが主演してること位だったのだが、じつはドラマではなく映画だったというのも今回初めて知った。他のキャスティングも、スジ以外にハン・ガイン、オム・テウンなど、昨今の彼の国の人気配役陣ではある。何気なく借りたDVDだったが、非常に面白かった。
 いわゆる若い頃の成就しなかった無垢な恋心が、それから何年も経って再び再会した時に、互いが知らないでいた事実が次第に明らかになる事で、嘗ての思いを次第に深めてゆくという、まあ、言ってしまえばありがちな内容では有るのだが、現在から始まるこの映画の時間構造が、現在の注釈としての過去を挿入しつつ展開してゆく、その挿入のタイミングが実に見事なのが特に興味深かいポイントだった。登場人物の背景が全く判らない中、ドラマが始まり、エンディングを迎えた時に、見ている者も全てを知る事になるというこの映画の展開方法は、常に情報欠乏下でドラマ展開を追わされる事になり、勢い、役者の一挙手一投足に目を見張る事となる。その目に十分答えるだけの、無駄の無いドラマ作りをしているのが素晴らしいと思う。例えば、何気ない場面なのだけれど、別れてから15年後に突然スンミン(オム・テウン)の建築事務所を訪れたソヨン(ハン・ガイン)が、自分の家を建てて欲しいと頼む場面。スンミンは会社と言うのはシステムがあって、”いきなり下っ端の私に言われても建てる事は出来ないんだよ”と言った直後にカットが変わって、”上司がいいチャンスじゃないか”と言う台詞とともにスンミンのふて腐れた表情が映る場面などは、この間のやり取りを(ソヨンが上司に掛け合って建築の許可を取りましょうと言って、その通りになったと言うような)、短いカットの中、役者の表情と最小限の台詞で説明しきっているのがいいと思うのだ。ドラマは本来、せりふという言葉の情報の他に、役者の演技(映画やドラマではクローズアップされた表情)という重要な武器を持っている。せりふで説明しすぎるのはドラマの本来持っている特質を放棄する事にさえなる。そう言う意味で、せりふ以外の要素がこの映画の中で重要な役割を果たしているのは、ドラマ作りがよくわかっている監督なのだと思う。
 せりふ以外と言えば、小物もこの映画では重要な役割を果たしている。大学生時代のソヨンが好きな曲だと言って聴かせるときに出てくるCDとCDプレイヤー。スンミンが学生時代にソヨンの為に作った家の模型。これらの小物は、学生時代に重要な意味を持っていたと同時に、それが15年後に再び出てきたときに2人の関係に重要な役割を果たす。こういったものの使い方が、この監督はとても上手いなと思う。

映画を見終わった後、いくつかのサイトを覗いてみた。特にこのサイトが興味深かった。

「建築学概論」は“初恋に関する映画ではない
http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=1939299

 こういうのを見ると、実際にその国でその時代を経験した人にしか判らないメッセージが、この映画には
込められているのが判る。90年代半ばに大きな経済発展を遂げた韓国は、その頂点の時代において人々の心をも変質させてしまった。例えば、ソヨンは貧しい田舎の環境を忌み嫌い、都会のソウルでの生活を望み、将来は金持ちと結婚して豊かな生活を送る事を、実際に実現しようと考えているタイプの人間だ。彼女は、経済発展によって多くの人が望む事になる、都会の裕福な生活を夢見る者の代表者としての役割を与えられている。スンミンの先輩チェウクは、河北(漢江の北)のことは解らないと授業で教授に嘯くほど、”漢江の奇跡”によって出来た街”江南(カンナム)”の住人である。ソヨンは、心の中では、地味でお金持ちでもない、街の腸詰めスープ屋の息子に心を惹かれつつも、車で大学に通い、家には最新式のパソコンを持つ金持ちの息子にソヨン近づきたいと思っている。この三角関係が、社会的な意味での3種類の人間の暗喩になっている。そう言う意味では、この映画は、確かに恋愛だけの映画として見てしまう事には問題が有るかもしれない。
 しかしそうであっても、この映画の最大の魅力は、変に大きな事件も出来事も起こらない穏やかなストーリー展開と、純粋で無垢な出演者達の恋物語が、無駄の無い研ぎすまされた映画言語で語られている点だろう。
何度も見たくなる不思議な魅力を持った映画である。

映画「建築学概論」予告

「建築学概論」2012年作品 韓国 2013年日本劇場公開作品
http://www.kenchikumovie.com(公式サイト)

ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団 所沢公演

 ゲルギエフ指揮のマリインスキー劇場管弦楽団を聴いてきました。場所は所沢の航空公園にある所沢市民文化センター、ミューズ アークホールです。このコンビの公演は非常に人気があるのか、本日のチケットも完売だったとの事。

  プログラムの1曲目のロメオとジュリエットは、組曲からの抜粋で3曲のみ。とりあえず肩慣らしみたいな演奏。と言っても、何か力の抜けたゆるい演奏と言う意味ではなく、このコンビの素の演奏という印象。でも、このオーケストラの音の美しさと、ダイナミックなサウンドはきわめて魅力的で、特に管楽器の音の美しさと豊かな音量、金管、打楽器のパワフルさは凄いなと思いながら聴いた。

  2曲目のチャイコフスキーのピアノ協奏曲は、若いロシアのピアニストのトリフォノフ。出てくるなり、お辞儀の仕方がなんだかとっても礼儀正しく丁寧で、好青年の印象。しかし、一旦演奏し始めると、自分の名人芸を披露したいという気持ちが強いのか、とにかく走りたがる。時には、微妙に破壌しそうにもなったりするけど、意外にも聴いていて不安定な感じはせず、妙な安心感が有るのはやはり元々持っている技量の高さ故なのだろう。この若さを、指揮者とオケが彼の意を汲みながらも時として手綱を握ってコントロールしている感じが見えて隠れして面白い演奏だった。ソリストとオケの綱引きを見る(聴く)のは、コンチェルトの楽しみ方の一つなのだと合点。彼は2011年のチャイコフスキーコンクールのウイナーとの事。

  3曲目は「悲愴」。ゲルギエフはここはガツンと来てほしいとか、ここのテンポチェンジは思いきってとか、聴いている最中に耳が次を予測する通りに(と言うか実際には2割増ぐらいに)演奏してくれるので、常に生理的快感を得る事ができて、気持ち良い事この上無い(オケのダイナミクスレンジの広さと、技術的な安定感がこの気持ちよさを裏で支えているのは勿論の事ですが)。指揮で面白かったのは、ゲルギエフは時折、粗雑な棒を振っている感じがして、それが楽器間のテンポの追随性を乱したり、アンサンブルの不統一を引き起こしたりするのだが、これは演奏者に打ちやすいストライクゾーンだけにボールを投げるのではなく、ボール球を投げたり時に暴投をしたりして、打ち返されるボールを見ながらゲームを支配しようとしている知能派投手のように、音楽に意図的に動ききを与えるための一つの方便なのかもしれないと思いながら聴いた。 

 実際、彼らの演奏はアンサンブルが乱れがちな箇所も有ったり、お世辞にも精細なアンサンブルとは演奏だったりするのだが、妙に動的で活力が有り、生命力に満ちた演奏に感じられたのは、こういうゲルギエフの巧みな指揮術に秘密が有るのかもしれない。特に、悲愴で素晴らしかったのは、終楽章で、冒頭から弦楽器の音が極めて美しく、表現力に満ち、指揮者も集中力が高い指揮をしているのがわかり本当に素晴らしい演奏だと感じた。このオーケストラの弦楽器はエクスプレシーヴォの表現の幅が極めて広く、指揮者の要求次第で様々な音が出せるのではないかと思わせるような所が有るのだが、その技量の高さがこの楽章で存分に発揮されていたように思う。今日の彼らの演奏は、きっちり練習をして、その練習の成果を人に聴かせる、と言うようなたぐいの正攻法的な演奏ではなく、今、現場で鳴っている音を生の状態で聴かせる、生きた状態で聴かせる事に事に専心している演奏、というように聴こえるのだ。

 何れにしても、濃密で表情豊か、ダイナミックで、生きた音楽を聴く事ができたこのコンサートに足を運んだ人は、誰もが満足して帰路についただろう事は確かな事だろう。このコンビがまた来日したら、是非、再度聴きに行きたいと思った。

  しかし、今回の彼らの日本ツアーのスケジュールを見ると殆ど休みなくコンサートを行っており、この所沢のコンサートが終わった次の日もロシアでコンサートの予定が入ってるなど、異常なまでのハードスケジュール。指揮者もオーケストラも相当疲れが溜まってきているのではないかと想像するが、そうした中でも終演後に、疲れた様子も見せずファンにこやかにサインするゲルギエフ氏の、プルフェッショナルな態度は本当に素晴らしい。

 マリインスキー劇場管弦楽団 指揮 ワレリー・ゲルギエフ
ピアノ ダニール・トリフォノフ
所沢市民文化センター ミューズ アークホール
2014年10月18日(土)

1.プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」より抜粋
仮面、少女ジュリエット、モンタギュー家とキャピレット家
2.チャイコフスキー:ピアン協奏曲第1番変ロ長調 op.23
3.チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 op.74「悲愴」

Works of Igor Stravinsky Box set (ストラヴィンスキーによる自作自演集) 試聴記

 普段、創作に関わっている者としては、個々の作品に興味を持って研究する事は有っても、特定の作曲家の生涯にわたる作品を概観することはないので、そういう意味では、この22枚のCDを聴く事は貴重な体験でもあった。彼の作品を概観してみて最初に思うのは、「春の祭典」という作品が、彼の作品の中でとても特殊な作品であると言う事。この作品が舞台の為の音楽である事と、ディアギレフという極めて個性的な芸術家との共同作業の結果として生まれた作品だという事は、この作品が作曲者のみの個性の具体化と考えてしまうのは少々問題が有るかもしれない。

 この全集を聴いて思うのは、むしろ、彼の純正な個性が発揮されているのは、3大バレエ以降の新古典主義以降の作品ではないかという気がするのである。それは、とくに新古典主義以降の作品に見られる、素材と作品の関連性に大きな特徴があると思うだが、ストラヴィンスキーの場合、音楽素材自体に構成原理を求めずに、素材自体の関係性による異化作用に音楽の原動力を求めている事に、大きな特徴が有る。そういう意味では、彼にとっては、ロシア民謡も、印象派も、バロックも、ルネッサンスも、ジャズも、単なる彼の音楽を構成する音響的なパーツにしか過ぎなく、複合的な作用とその結果自体が彼の音楽なのだと言って良いだろう。

 ストラビンスキーの作品にしばしば見られる様式的な混交は、伝統的な価値基準によれば、否定的に見られるのは当然であるし、実際そういった作品は評価が低いのではないかとも思う。しかし、そういった音楽的処理やその効果は、後の時代のコラージュによる音楽や、昨今の電子音響音楽における素材の連関にも関わる重要なテーゼの一つでもあるし、未来のために過去をどのように活用するかという点にける一つのモデルを提示しているとも言えるかもしれない。そういう意味では、現代に繋がる重要な意味性が、彼の作品には有ると言えるだろう。

 彼の作品の様式的な変遷や多様性は、内的な要因と共に、外的な要因、二つの世界大戦、ロシア革命、それらによるロシア、スイス、アメリカと転々と居住地を変えなければならず、土地を奪われ、大戦で著作権種収入もおぼつかない中、常に演奏される作品をつくらなければ生きていけなかったという厳しい環境が生み出したともいえる。それは、彼の作品を理解する上での隠れたファクターとして意外に重要なのではないかと思う。しかし、凄いのは彼の作品からはそんな事はみじんも感じさせないという事だ。

 ストラヴィンスキーの音楽を語る際に見過ごしてはいけないのは、彼の父親がマリインスキー劇場のオペラ歌手であったことから、オペラや声楽曲には非常に造詣が深かった事である。しかし、現代的な視・聴覚表現である映画に関しては、ストラヴィンスキーがハリウッドに住んでおり映画音楽への誘いが多かったにも関わらずそれが1つも実現しなかったのは興味深い事実である(実際、映画で使用される事を想定して作曲された作品も多い)。ストラヴィンスキーが、作曲を断った映画で有名なものは「天地創造」である(彼がこの作品を蹴ったせいで日本の若き作曲家、黛敏郎がこの大作のクレジットに名を残す事となった)。”The Flood”1962年)も創世記の話なので流れとしては1966年の天地創造(映画)に上手く繋がる気がするが、彼がこの仕事を断ってしまったのは、映画というメディアを伝統的な舞台芸術と同列に、意味有るものと考える事が出来なかったという事なのかもしれない。

 彼の最後のオリジナル作品が、妻へ贈った小品だというのは、著者が書籍の後書に家族への感謝の言葉を述べているような不思議な気分にさせられるのですが、これは偶然が引き起こした美しいエピローグなのだろう。

 [補遺]
–Disk20
カンタータ星の王: Le Roi des étoilesはドビュッシーに一番接近した作品。春の祭典と同時期の作品と考えると興味深い。印象派風なatmosphere、複合的な和音の堆積、ふと春祭を思わせる響きなど、なかなか一筋縄でいかない短い作品。

–Disc 21
晩年の無調の宗教作品群はなかなか興味深い。12音技法を自分の過去の技法と統合しつつ慎重に取り入れていったこの時期の作品はもっと評価されてしかるべきと思う。

[ストラヴィンスキー語録]
「騒音が音楽となりうるのは、いうまでもない。しかし、騒音は表意的になってはいけない。音楽それ自体は、何ものも意味しないのだから」ストラヴィンスキー ”118の質問に答えるより – 電子音楽について

 「成功に酔っている凡俗性を罰する煉獄があったらどれでもかまわない、シュトラウスのオペラなんか、みんな、それにくれちまいたいくらいだ」ストラヴィンスキー ”118の質問に答えるより

変奏曲レクイエム・カンティクルズが私の創作の全体像を変えたという事であり、私が現在欲しているのは、その完全な全体像を今一度変えるための力なのである。」ストラヴィンスキー
大作曲家「ストラビンスキー」ヴォルフガング・デームリング(長木誠司 訳)

Works of Igor Stravinsky Box set, Import

 

ラヴェル:オペラ「こどもと魔法」「スペインの時」〜サイトウキネンフェスティバル松本

ラヴェルのオペラ「こどもと魔法」と「スペインの時」を松本で見てきました。サイトウキネンフェスティバルのオペラ公演は以前から見に行きたいと思っていたのですが、家から松本は少々遠いので(まぁ、高速で2時間位では有るのですが・・)、二の足を踏んでいましたが、今年は小沢征爾の復帰公演ということもあり、今年は日帰りオペラ鑑賞を決行しました。
しかし、いざ行こうと思ったら肝心のチケットは取れず、仕方なく諦めかかけていたらなんと直前に、機器関連の設備状況で為、空席が出たらしくネットで販売している事が判明。無事に鑑賞に出かける事が出来ました。

 実は、2004年にパリ旅行に行った時に、オペラ座(ガルニエ)で、小沢征爾が「スペインの時」と「ジャンニスキッキ」を振っていたのですが、公演日程が旅行日程と合わなくって見に行く事が出来なかったと言う残念な事がありました。今回は、そのリベンジの意味も有ったのですがね。
 実は恥ずかしい事に、このラベルの2つの短いオペラについては、若い頃
レコードを買って聴いた事は有ったものの、内容に関しては殆ど記憶になく、音楽の記憶も全くないと言う、まぁある意味新鮮な気持ちで見る事が出来ました。
 公演の最初が小沢征爾指揮の「子供と魔法」。今回、指揮台に現れたオザワはいつもと変わらない元気な姿で、指揮ぶりも全く不安げが無い立派なもの。
オケも指揮も素晴らしいけど、時に印象に残ったのは舞台装置の素晴らしさ。
ロラン・ペリー(演出)とバーバラ・デリンバーグ(舞台装置)の共同作業によるファンタジックでデフォルメされたオブジェ(といっても家のテーブルとか椅子とか)や猫や木などの動植物がすばらしく、そしてとても印象的でした。それらが歌い、動き、踊ったりする訳で見ているだけで楽しいし、その上ラベルの華麗で上品なオーケストラが耳を楽しませてくれる訳で、この上ない素敵な時間を楽しませてくれました。歌手も一流だし、合唱も上手い。このクオリティを国内のオペラ(実際はグライドボーンとの共同制作ではありますが)で鑑賞できるのは本当に有り難い事。値段も外来のオペラよりは安いと思いますしね。
 面白かったのはカーテンコールで、舞台上で歌手達が挨拶しているその下で、ピオザワがピットの端から端まで演奏者一人一人に丁寧に握手を求めて、歩き回っているのが印象的でした。多分、お客さんはみんなオケピットを見ていたに違いないと思います(笑)。あんなに丁寧に握手していたら、カーテンコールが終わっちゃうんじゃないかと思っていたら、歌手達の挨拶が終わる頃にはちゃんとオケ全員との握手を終わり、絶妙のタイミングで舞台上に現れまして観客の歓声を浴びておりました。この人プロだなぁと変な所で妙に感心してしまいましたが・・。舞台上でも、背後に沢山並んでいた木の大きなかぶり物をかぶっていた合唱団員を、最後に最前列に呼んでお辞儀させるなど(この光景は、結構壮絶な絵で最高に傑作でした!)笑いを誘う一幕も。
 公演が有ったまつもと市民芸術は比較的長さが短いシューボック型ホールなので、後ろの席でも不満無くオペラを楽しめ、音響にも不満は無かったです。ちょっと残念なのは、来ていたお客さんの年齢層がとても高いという事。まぁ、オペラは高い見せ物だし、松本は首都圏からも遠いので、コアなお客さんや、お金と時間がある年配層が中心になってしまうのは仕方がないにしても、こういう素晴らしいオペラ公演は、未来を担う若い音楽家の卵達に是非見てもらいたいと思いました(3階席の後ろには、ポールがあって立ち見も可能そうに見えたけど、そういうのを活用して安い席を作るとか出来ないのですかね?)
・・・と言う事で後半のステファノ・ドゥネーブ指揮の「スペインの時」もとても良かったのですが、書き始めると長くなりそうなので、一応この辺でやめときましょう・・
ラヴェル:オペラ「こどもと魔法」「スペインの時」
〈グラインドボーン音楽祭との共同制作

済州島でバカンス

韓国の済州島にバカンス行ってきました。済州島のバカンスは今年で3年目。どんなとこだろうね?など少々訝りながら行った初回だったのですが、美しい海と風景、清浄な空気と水に甚く心を打たれ、済州島旅行は毎年夏の外せない予定となりました。済州島は意外にも日本人旅行客が少なく、ホテルでも日本人に殆ど遭いません。そのせいか、ホテルで日本語が通じない(韓国語か英語か中国語は皆さん話せるようですが)ので、ソウルなどとは違って、少々不便な時も有りますが、まぁ、その分、海外旅行気分は倍増します・・かね。

部屋からの眺め(ホテル側)

宿泊したロッテホテル済州には宿泊客用のビーチやプールも有るせいか、子供連れの韓国人旅行客や、カップルが目立ちます。プルーサイドでパッピンスを食するのもオツなものですが、写真のメロンビングスは w35000(3200円位)もするので、完全に経済観念は払拭した状態で頼みましょう(笑)

メロンビングス
 済州島の料理は美味しい事は美味しいのですが、基本的に本土とは異なる歴史を持った島なので、本土と同じ洗練さを期待するのはこくかもしれません(ある意味、田舎の味という感じがします)。むしろ、捕れたての海産物や農産物の新鮮さを味わうとか、そういう楽しみ方になるでしょう。済州島の有名な海産物はアワビなのですが、このアワビも、済州島産はプレミア商品なので相当高いらしく、高級店などに回ってしまうようで、不通のお店で出て来るようなアワビは半島の南西岸あたりで採れるアワビらしいそうです。写真はアワビのトッペギ(土鍋)–アワビ5個入り–ですが、国内産・・と書いて有りましたので、多分、済州産では無いですね。

トムジャン食堂
アワビのトッペギ
 このお店は、ホテルから電話をしてもらうと、お迎えにきてくれるので大変便利です。
帰りもホテルまで送ってくれるのですが、過去2回ほど(今回を入れて)、従業員の帰宅と同じ時間になって(要するに閉店まで居たという事ですが)、従業員用バンに詰め込まれてホテルに帰った事が有りました(今回はマイクロバスで一緒に帰りましたが・・)、従業員方達は、本当に明るい方達ばかりのようで、帰りのバスは宴会の帰りの楽しい雰囲気でした(笑)
トンベコギ

済州島は豚も有名なので、今回はトンベコギ(まな板豚)に挑戦しようと思って、事前に調べたお店にホテルから予約を入れてもらった所、当日はお休みの日だったらしく、お目当てのお店には行けませんでした。残念。

チョンジッコル食堂천짓골식당

上の写真はトムジャン食堂で食べたトンベコギです。
 今回はあまり観光はしなかったのですが(外に出ると暑いですしね)、ホテルでゆっくりしたりプルールで泳いだりと、3年目にしてやっとバカンスらしい旅になったかもしれません。上の写真は、西帰浦市にある正房瀑布(정방폭포)。今回、唯一観光した場所です。(ホテルからリムジンバスで30分位ですかね–バス停からちょっと歩きます)
 
最近、仕事場の同僚がこの島で研究をしている関係で、現地の人かのディープな情報を聞く機会があるのですが、この滝も現地にとっては曰くのある滝で、決して喜んで観光に来るような場所ではないようです。気になる方は、戦後の済州島の歴史を紐解いてみて下さい・・・。
 
さて、済州島から英気をもらって、元気いっぱいになりましたが、来年は何処へバカンスへ行こうかな?
 
 

韓国旅行とWifi

もう何度も韓国へは旅行に行っている私ですが、韓国のWifi事情も少々変化してきているので(値段、通信規格も含めて)、ここいらで備忘録的にちょっとまとめておこうと思います。
以前はそんなにたくさんの業者がやっていた訳ではないので選択肢が限られていたのですが、よく使っていたのは グローバルデータ  まぁ、値段的にも一番安く、ソウルなんかの都心での繋がり具合は良かったので、結構使わせてもらいましたが、一度、うちの奥さんが単身韓国に行った時に借りて行ったら、全然繋がらなかった(機械の故障?)という事があって、それ以来、借りるのを止めてしまいました。その後、情報漏洩とかで色々問題になっていた会社ではありますが・・・。
その後、借りてたのは金浦空港の到着ロビーにカウンターがある、現地の業者。ウォン払いで、日本で契約するより安かった記憶が有るのですが、今検索したら上手く見つからなかったです。若い社長らしき人が、潔癖症(?)なのか返した機器を一生懸命磨いていたのが印象的でした。(対応は丁寧でとても印象が良い会社でしたが)。こちらもWimaxだったはず。
前回行った時に借りたのは、韓国DATAのWiBro という機種。4Gとなっているので3G互換なのかと思って借りたら、Wimax互換規格のようで、ちょっと田舎な場所なんかでは繋がらないという事が有りました。もう1つ借りて行ったのがプリペイドSIM。私はSIMロックのかかっていない3G Wifiを1つ持っているので(Fuawei E585)それに入れて使ってみました。北朝鮮との国境付近まで行くのに3Gの方が良いかな?と思って借りたのですが、ネットに写真をバシバシ上げていたらプリペイド分(2000円分の通話・通信料金)はあっという間に無くなってしまいました。安く上がるかと思っていたら、結局、高上がりだったという話。このプリペイドSIMは通話にも通信にも使えるのでSIMロックのかかっていない携帯を持っている人で、現地であまり使わないかもしれないけれど必要だという人には良いかもしれません。有効期間は360日だったと思います。
さて、次回行く時にはどれを借りようか悩ましい所なのですが、Global wifi  は3G、4GLTEに対応している機器をレンタルしているようなのでこれあたりが最強か・・と思たりするのですがどうなんでしょう?あるいはソウル市内だと、Wifiスポット(有料)が多くなって来ているので、レンタル機器を使わなくても、コンビニでWifiのプリペイドカードを買うというのも安上がりかもしれません。(3300ウォン)。ソウルWifi事情2013(参考)

まぁ、田舎に行くなら3G通信可能なWifi、ソウルの都心しか行かないならWimax、そんなに使わないならWifiプリペイドっていうとこですかね。

以上。

全音スコア-ドビュッシー交響詩「海」(2002/12/10記)

先日、モーツァルトの交響曲38番のCDを聴こうと思い立ち、
書棚をスコアの探索したら、どうも我が家にはこの曲のスコアが
無いようである。
大作曲家の主要な作品のスコアは揃えたつもりになっていたが、
こんなに重要な曲のスコアを欠いているなんて・・
と思い、近所のCDショップにある楽譜コーナーに足を運んだ。
そこであろう事か、38番と39番を勘違いして買ってしまい、我が家には
モーツァルト交響曲第39番変ホ長調・・のスコアが2つになってしまった。
しかも2つとも全音のポケットスコアである。

この全音版、貧乏学生だった頃から愛用していたが、
その理由はこのスコアの値段が、他に比べて安いからというのと、
巻頭に詳細な楽曲分析が載っているために、
作品の勉強用としては大変利用価値が高いからだった。

ただし、この全音のスコア、間違いがあまりにも多い。

早速、このモーツァルトの39番の交響曲にも、第2楽章の弦楽器に
リズムの間違いを発見した。
この間違いは、新しく買った方の楽譜で発見したので、
思い立って古いほうも確認してみると、そちらも同じく間違いであった。

20年の時を経ても間違いが直っていないこのスコア、信頼性は大変低いと思うが、
私には別の楽しみがあった。

レコードを聴きながら、或いは電車の中で目をを皿のようにして眺めながら、
このスコアの中に間違いを見つける。これが当時の私のにはちょっとした
ゲームじみた楽しみであった。

しかしこの全音スコアに思わぬ重要なスコアがあることがわかった。

それはドビュッシーの交響詩「海」なのであるが・・・

ドビュッシー〈海〉

ドビュッシー
全音楽譜出版社 (2000/00)

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ドビュッシーの交響詩「海」は異なる版がいくつか在るらく、
調べてみると以下のようになるらしい。

1905年  「1台4手によるピアノ連弾版」
1905年  「オーケストラ初版」(Durand&Fils)
1909年  「オーケストラ第2版」(Durand&Fils)
1908~10年 「2台4手によるピアノ連弾版」
1938年 「オーケストラ第3版」(Durand&Cie)
1971年 自筆譜・1909年版・1938年版を
マックス・ポンマーが校訂したスコア(PETERS社)
音楽之友社から1992年に出版)
1983年 新しい校訂版(ドーバー社)
(PETERS社とは違った部分あり)
上記の全音のスコアは「オーケストラ第2版」を基にするものらしく、
現在、殆どの演奏者が使用しているデュラン社から出ている「オーケストラ第3版」
とは微妙に違う部分があるようである。

ブルックナーならいざ知らず、ドビュッシーに版の問題が在るとは知らず、
少々驚いたが(とともに不勉強を少々恥じたほうがよいかも知れない・・)、
このスコアを見ながらCDを聴くと微妙に異なる部分があって、興味深い.

この第2版は現在は入手困難であろうと思われるので、
現在も販売されているこの全音版のスコア、
以外にも非常に貴重な存在という事になる。

最近は我が家でも顧みられる事がなくなっていた全音のスコア、
新たな価値を見つけて少々うれしくもあった。
この曲の版の資料としては、下記の熊蔵氏のページに詳細なデータがあるので
ご興味のある方は、ご参照ください。

版による相違
海のXファイルへのエスキース12型
海のXファイルへのエスキース入り口

全音版スコアの新たな発見もあったのだが、
結局、モーツァルトの交響曲38番はアマゾンで購入する事になった。
都内のCDショップや楽譜店で買うよりアマゾンで買うほうがずいぶんと安い。
(楽譜に表示されているドル価格と殆ど同じ)

届くまで少々、時間がかかる事があるのが難点だけれど・・・
この楽譜も間違いが無いかチェックしてみようか・・・

Wolfgang Amadeus Mozart
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