マクベス シアターカンパニー カクシンハン第10回公演

マクベス シアターカンパニーカクシンハン第10回公演
東京芸術劇場シアターウエスト 1月28日
作:W.シェイクスピア 翻訳:松岡和子 演出:木村龍之介

とりあえずマクベスを見に行こうと考えて選んだ公演。カクシンハンという劇団がどういう劇団かも知らずに見に行ったので、劇が始まってからいろいろ驚くことになった。通常観る舞台とは大いに勝手が違ったので記憶も少々曖昧だけれど・・。舞台は背景に映像を映す以外には大道具は無く、使っていたのはパイプ椅子とパイプ椅子をしまう台車、白い布、ゴミ袋等。このパイプ椅子を剣と見立てたり、役者が並べて壁にしたり、パイプ椅子をしまう台車が玉座になったりと、お金のない劇団の発想は凄い。パンフレットを見たら、マクベスがオリンピックで連戦連勝だったら、みたいな妄想を絡めた演出のようだが、何かを志向している演出というよりは、ノイズをどかどか投入して舞台を活性化させているような生きの良い演出。戦勝祝いの宴で、兵士たちが自分でコンビニでお菓子とドリンクを買って来て祝うとか、マクベスの殺したヴァンクォーの亡霊(女子高生姿)が現れる度に、某コンビニチェーンの入店音が鳴ったりするのはシェイクスピアの台詞のテイストとちょっと違うんじゃないか?と思ったけど妙に面白かったりする。現代の東京とシェイクスピアのセリフの持つ時代感が微妙にオーバーラップして独自の空気感を作り出しているのが良い。最後の方で(マクベスが軍旗を上げる場面(?))で、舞台背景に日本国旗が唐突に映し出され、強烈な印象を与える。そして、日本国旗を背景にして死んだマクベスとマクベス夫人が、取りかこむ魔女たちが足をバタバタさせる動きで、実は私たちは俯瞰で見ているのだと気付く頃、あの赤が彼らの流した血に見えてきたりするから不思議だ。そういえば、この劇の最初の方で、役者さんの台詞に合わせて指を唇に持って行く仕草をさせられた時、実は私たち観客は魔女としてこの舞台を見ていることになったのだと気付く。そして欲望に憑かれて無残に死んでいったマクベスと夫人を私たちは空から魔女たちと一緒に見て終わる。一見、ドタバタの演出のようにもみえるけど実は何か深いものもありそうな独特の演出で面白い舞台だと思った。主演の河内大和(マクベス)、真似見(マクベス夫人)の実力派の役者さんも力が入った演技で良かった。舞台下や観客席も縦横無尽に使う演出も面白かった。

http://kakushinhan.org/works#macbeth

ヘンリー四世 シェイクスピア作  新国立劇場中劇場

ヘンリー四世
作:シェイクスピア 翻訳:小田島雄志 演出:鵜山仁 場所:新国立劇場中劇場 12月3日(土)

演劇はオペラやバレエと違って舞台と観客席の垣根が低い様な気がする、というと後者は舞台と客席の間にオケピットがあるからという劇場の機能的な側面に回答を求められそうだけれど、観客席を自由に行き交い笑いさえとる出演者の動きをみて本当のところはどうなのだろう?という疑問も浮かんでくる。合計で6時間もかかる舞台を1日で見るというのはある種の苦行になるのではないかという不安もあったが、そんなことは杞憂に過ぎなかったのは嬉しい誤算だった。音楽家の端くれとしては「ヘンリー4世」は、ファルスタッフ(フォールスタッフ)の大活躍する舞台作品であるというのが大きな興味ではあるのだが、この登場人物はヴェルディの「ファルスタッフ」より本作品での方がはるかに魅力的に見える。対立項としての権力や権威が主要な登場人物として登場していることがその魅力を倍増させているとは思うが、そもそも「ファルスタッフ」(というか「ウインザーの愉快な女房たち」)はスピンオフ作品なのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。独白も見事にきかせ、笑いもとるフォールスタッフ役の佐藤B作ははまり役。あのつくった嗄れ声で長丁場を演技し続けられるのは流石のプロ。ハル王子役の酒井健二は、どうしても仮面ライダーのイメージで見てしまうのはプロフィールの印象が残っていたせいかもしれないが、子供の頃から王になるべく英才教育をされていて、良くも悪くも王室の匂いをさせているはずの王子が、ただの街の奔放なロッカーにしか見えないのは演出のせいなのか本人の演技のせいなのか。同様にヘンリー・パーシー役の岡本建も、王に裏切られた一族の苦悩や恨みがもう少しにじみ出ていれば、ただの気性の荒いだけの男のようには見えなかったはず。文学座の脇役陣は安定の演技で脇を固めていたが、非文学座の王ヘンリー4世役の中嶋しゅうだけが、舞台俳優的ではないおとなし目の発声で演じて独自の雰囲気をつくっていたのが興味深い。   第1部が動ならば第2部が静。第一部で王子とともにあったフォールスタッフが王子が王になった途端に追放されるのは、シェイクスピアのバランス感覚の素晴らしさだと思う。あれがあったからこそ、この作品は聴衆に疑問符を投げかけて終わることになる。安直な答えもヒーローも生み出さないのが良い。音楽の使い方は常套的で、いかにも商業音楽的な音楽付け。使っている音楽がクイーンというのも少々ベタな選択。その他、第2部で地方判事役のラサール石井と佐藤B作が兵士を審査する場面でのアドリブのやり取りはベテランコメディアンたちの妙技であった。

ヘンリー四世

アイヌへの旅②〜平取町立二風谷アイヌ文化博物館〜

今日は朝から車で二風谷へ。車のナビでは2時間くらいのかかる予定だったけど1時間で到着。Googleの方が実測に近いのはいつも感心するところ。二風谷は海岸線から結構奥まっているけれど、標高はそれほど高くなくまた谷も浅い。 漁労中心のアイヌにとっては、川の幸に恵まれた住みやすい所だったのだろう。二風谷のアイヌ文化博物館は小学生の社会見学で大にぎわい。与えられた課題をこなすため会館内を飛び回っていた。二風谷の様々な資料は、この土地に生まれ育ち、後に国会議員にもなった萱野茂の尽力により集められたものである。また、ハイランドの出身でイギリスとの併合で母国語を失った国で生まれたニール・ゴードン・マンローの存在も忘れられない。彼の尽力で失われてゆく民族の貴重な記録映像や著作が残され、海外でもアイヌをが知られるところとなった。売店に行ったら大層立派なトンコリがあった。Fender USA と同レベルのお値段は少々悩むところ。そのうち予算が有ったら・・・

今日の二風谷は少々寒く早めに撤退。

今も館内のDVDで見た”鳥になりたい”という女性が歌う歌が重く心にのし掛かっている。
また来よう。

【公式】平取町立二風谷アイヌ文化博物館のホームページ 

アイヌへの旅①〜白老アイヌ民族博物館〜

今日は千歳空港からレンタカーで白老に直行して、アイヌ民族博物館を観覧しました。さすがに平日なのでお客さんは少なかったけれど、韓国のツアー客や高校生の修学旅行が訪れていたよう。
チセ(アイヌも民家)では歌や踊りのパフォーマンスをやっていたようだけれど、入り口に”貸切”と書いてあったので、窓から覗いて暫く見ていた。だけどちょっとバツが悪くなって退散。暫くしてもう一度通って見たら、空になった室内に普通に案内された。後で調べて見たら定時で行われている出し物だった事が判明。白老アイヌの歌や踊りは、ちょっと前に見たマンローの映像(二風谷で収録したもの)とも雰囲気が違う様な気もする(時代も違うのだが・・)。
売店で売っているトンコリについて大きさの違うものとかオーダーは出来ないのか?とか尋ねたら「う〜ん、今、館長、忙しいですからねぇ。ある物しか無いんですよね。」と、ここの館長の手作りとのこと。その他、諸々売店の方と立ち話。売店には市場から消えている様な資料も売っていて、いろいろ買っていきたいのだけど、予算の関係上、本一冊とムックリ三個で我慢。ポロトコタンの波音が、静かに音楽を奏でているみたいで美しかった。次回来るときは録音機も持ってこよう。

アイヌ民族博物館(白老)

オザワフェスティバルオーケストラ公演  マーラー 交響曲第2番「復活」

オザワフェスティバルオーケストラ公演 2016年8月21日(日)
マーラー 交響曲第2番「復活」
指揮:ファビオ・ルイージ
オーケストラ:サイトウキネンオーケストラ
ソプラノ:三宅理恵
アルト:藤村実穂子
合唱:OMF合唱団、東京オペラシンガーズ

 本年度のオザワフェスティバル、サイトウキネンオケによるオペラ公演は無くなってしまったというのが少々残念なところ。小澤征爾氏自身の体調面の不安も抱え、今年は本当に振れるのか?というところも気になったところですが、その中で唯一気炎を吐いているのがフアビオ・ルイージとサイトウキネンオケのコンビ。昨年のマーラーの5番は、超絶技巧のオーケストラと熱意あふれる指揮者が化学反応おこした結果、両者の能力の限界ギリギリのところでの演奏を聴かせてくれたのが記憶に新しいところ。その流れで、今年のマーラーの「復活」もおのずから期待が高まるところでした。今年、取れた席は2階席の最後方。意外にもよく聴こえる席。昨年聴いた席は1階の後方で、奥まった弦パートがあまり聴こえない印象だったのですが、ここは見事に各パートの音がクリアに聴こえる席。良い席が当たりました。演奏は、ファビオは今年も攻めの音楽づくりかと思ったら今年はちょっと違ってて面白かった。音楽が一気に燃え上がるところは昨年と同じだけれど、今年は弦がよく歌うのと同時に、弱音の美しさが際立っていた。勿論、弦のユニゾンなどのffも強力だけど(1楽章の展開部、Es durの動機が何と力強く鳴ることか!)。管楽器のソロは美しく、金管も強烈に鳴る。なんとも贅沢な表現がてんこ盛りの1楽章。2楽章はレントラー風リズムを強調して上品な舞曲仕上げ。ここでも弦がよく歌い、ルバートやポルタメントを上品い使いながら極上の美しさ。2楽章と3楽章の間にソリストと合唱が入場で少々間が空く(ちなみに1、2楽章で5分以上空けるというマーラーの指示は今回短めに済ませていた)。体調不良のクリスティーン・コーギーに代わって歌ったアルトの藤村実穂子が素晴らしいかった。オケが鳴っていようが合唱が歌っていようが彼女の声はとてもよく響く。とても不思議。合唱も人数が多かったせいもあるが力強く終楽章の盛り上げに貢献していた。終楽章の大団円で、ファイビオはこれ見よがしな盛り上げをせず、ごく自然に音楽に身を任せていたのが良かった様に思う。最後の終止和音が鳴った後、ファビオ・ルイージの音楽でもなく、サイトウキネンの音楽でもなく、マーラーの音楽を聴いたという印象をもたせてくれたという意味で。マーラーの復活は長い交響曲だなと思った、それは演奏の中身がが濃く充実したものだったために、聴衆も密度の高い時間を過ごしたせいだろうと思う。一線で活躍しているオペラ指揮者らしく、舞台作品として完璧なパフォーマンスという印象があった(バンダが舞台上のオーケストラとあんなに一体化した演奏というのは聴いたことが無い!)。こんなに良い演奏は滅多に聴けないだろうなと思った。音楽の深さに触れることができた演奏家だった。聴きに行って良かった。

PMFオーケストラ東京公演 ワレリー・ゲルギエフ指揮、PMFオーケストラ

PMFオーケストラ東京公演
2016.8.9(火)サントリーホール
ワレリー・ゲルギエフ指揮、PMFオーケストラ
VL:レオニダス・カヴァコス

聴いてきました。今回は指揮者を見たかったのでP席で。

 一曲目はメンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」。小ぶりな編成。爽やかで初々しい音がするオケ。弦は少々、芯のない軽い音に聴こえたけど、若々しさに溢れていてとても魅力的。いいよな若いって、と思いながら聴いたけれど、指揮者はこの軽やかな曲でも、常に唸り歌う様な声を発しておりました。ゲルギエフはほぼ手をヒラヒラさせている様な指揮ぶりで、主に音楽的なことに集中している印象。ビートなんかは刻まなくてもキチンと演奏できる優秀なオケって事ですね。3楽章ではキチンと三拍子の図形を描いているところがあって逆にちょっとびっくりしたけれど。

二曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲。カヴァコスはヨーロッパのオケとの共演の映像では見た事があったけど生で見るのは初めて。映像で見たロン毛髭面でラフなシャツを着ている怪しいオヤジという印象は、生で見ると知的で完璧な演奏をするクールなヴァイオリニストというイメージに変わってしまうから、あら不思議。この日の演奏も完璧で美しい演奏を聴かせていた(私のところからは、ホールに跳ね返ってきた音しか聴こえなかったのですが・・)。アンコールで弾いたバッハの無伴奏ソナタの緩徐楽章も美しかった。演奏後の長い沈黙の時に、あぁそうだ、今日はショスタコーヴィチの命日だったという事を思い出しました。

休憩後、ショスタコーヴィチの交響曲第8番。編成が拡大されて気がつくと、私の席はホルンのベルが直撃の模様。ホルンが強奏するとほぼ弦が吹っ飛ぶ凄い席だった。ショスタコになると、もう完全にゲルギエフワールドで、前半に聴こえたPMFっぽさはほぼ消え去り、彼が描くドラマティッックな音の世界に引きづりこまれてしまう。「見てごらんなさい。この暗い穴の中を。あなたは何が見えますか、絶望ですか?地獄ですか?幸福ですか?天国ですか?」と常に聴衆に問うてくる様な演奏とでも言ったら良いのだろうか。もう彼のつくり出す音楽は常人の域を完全に超えており、ただただ凄いとしか言いようがない。こんな音楽をつくったショスタコーヴィチも凄すぎるのだが。最後のハ長調の和音が極めて美しく響いていた(そしてそれが何故か意味ありげに聴こえる)。本当に長い沈黙のあと大きな拍手とブラボーの嵐。聴きに行ってよかった。だけど彼の描くショスタコーヴィチの音楽はなんだか恐ろしい。終演は10時というヨーロッパ時間的なコンサートのせいで帰宅は終電になってしまった。

サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団 指揮:ユーリ・テミルカーノフ

サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団
指揮:ユーリ・テミルカーノフ
2016年6月5日:文京シビック大ホール

 「シラザード」と「悲愴」という超名曲プログラム。前から2列目のA席。舞台にかぶりついての鑑賞でした。テミルカーノフの指揮は必要最小限の指示でスケールの大きなサウンドを引き出す少々マジカルな指揮術に見える。オケは弦楽器がとても美しくたっっぷり歌い良く鳴る。木管管楽器はバランスが良く響きも美しく透明。金管は音程が正確でかつパワフル。というと非の打ち所のない演奏に聞こえるが、ちょとそうでもなかったのがこの日の演奏。「シラザード」の出だしからいきなり弦とホルンがずれていて思わず指揮者もホルンの方を振り返るぐらい。2列目席で2ndヴァイオリンの真ん前だったので、2ndの前と後ろの音のズレがわかりすぎるくらい判る。コンサートマスターや2ndのトップは指揮者に迅速に反応するのに2ndの後ろの方はどこ吹く風だったり、テンポ変わり目で管楽器はきっちり食いついていくのに弦はもっさりだったりと、少々落ち着つかない。それでもステージに入ってきた時は緊張の面持ちだった楽員さんも「シェラザード」が終わった後はにこやかに去っていたのでした。ま、いろいろ有ったけど壮大で美しい音の絵巻物のような音楽ではありました。

「悲愴」は指揮のテミルカーノフは、打点が実際の発音より結構早めに入ってしまうことが多く、そしてその棒についてくる人に合わせてどんどん先に行くとても冷たい人(振りかたは優しげなのに・・)。水先案内人は既に先に行ってしまい落ちこぼれた人と優等生が混在する中でオケメンバーは終始探り合いが続くようなな状態。そしてテミルさん、テンポチェンジの度に、なぜかテンポが変わってから更に早くしようとする(予想したテンポより遅かったのか??)。もう指揮者レベルでアンサンブルに乱れが出ている感じがする。そんな感じで終楽章まで行ってしまい、正直終わっる頃にはこっちも疲れ切っていました。楽員達も困惑の表情で、ステージ内に微妙な空気が流れている気もする。その日、アンコールで用意されていたと思われる譜面も使われることなく早々とオケを解散したのは少々残念でした。この演奏にスタンディングオベーションは無いでしょう?と思ったけど指揮者はにこやかに最後まで拍手を受けておりました。「悲愴」って結構難しい曲ですね。でも、あのスケールの大きなサウンドはテミルさんが振らないと出ないんだろうと思います。酸いも甘いも噛み分けてきたであろう温厚な紳士の音楽は、やはりなんだか魅力的に感じます。次回来日してもまた行くと思います。

アイヌ研究(読書)

松浦武四郎という人は北海道とアイヌにとっては切っても切れない重要人物である。(小学生の時に北海道の歴史という授業があったけど、そこで習っただろうか?)三重の松坂出身の彼は六度も蝦夷地に赴き150冊およぶ記録書を残している探検家でもあるが、優れた地理学者、地勢学者、民族誌家でもあった。松前藩や現地の和人の非道なアイヌに対する扱いに憤慨し実名入りで幕府に報告書を上程したことから、松前藩の刺客に狙われる生活となった彼は、アイヌと彼らの生活を愛するヒューマニストでもあった。佐江衆一氏の「北海道人」にある”北海道人”は松浦武四郎の雅号であり、今の北海道の地名はここから来ているのだと思われる(彼が地名として提案した中には北加伊道が含まれていたが北海道ではなかった)。
池澤夏樹の「静かな大地」は作者の先祖にあたる人物を中心にした実際の記録に基づく創作物。様々な文献を参考に実際の北海道史の中に実在の人物や架空の人物を当て込み、彼らの事績を曲げずに書かれた小説。無色透明な歴史書を読むより、当時のアイヌと和人の交流や軋轢、次第に影を擡げるアイヌに協力する者への圧力や蔑視が手に取るようにわかるのは小説という形式の強みだろう。しかしこの小説の結末は残酷なまでの悲劇であり、正直、涙無くしては読むことができない。”静かな大地”はアイヌや心ある和人にとっては永遠に訪れない夢物語でしかなかったのだろうか?
青木純二「アイヌの伝説と其情話」。こういう古い書物が国立国会図書館のデジタルコレクションで自由に見ることができるのはとても有難い。著者の青木純二が新聞記者時代に北海道各地で古文書、研究書、アイヌ部落の古老達に聞いた話をまとめたものと言う。現在出版されているアイヌの言伝え等に比べて、何故かある種のリアリティーがあり興味深く読んでいるが、記述の背景にアイヌ差別や蔑視が感じられて気分は良くない。こういう文章を通じて大衆のアイヌ感が形成されていったかと思うと、記者や文筆家の公平とななんなのだろう?と古くて新しい問題が頭をもたげる。

劇的舞踊「カルメン」noism1,2合同公演 神奈川芸術劇場

劇的舞踊「カルメン」noism1,2合同公演 2016年2月20日(土)神奈川芸術劇場

ちょっと関心があって遠路はるばる見に行ってきたのがこれ。田舎もんには”休日おでかけパス”というJRの秘密兵器があるので、週末公演は助かります。

うかつにも演劇だとおもって見に行ったら実は舞踊で(よく考えたらそう書いてあるじゃない)、それがわかったのがこの舞台の進行役の学者役の男性以外にセリフが無いのだと理解した中盤以降と言うのはちょっと情けない話・・。舞台作品としてはオペラが有名なこの作品を身体表現として見るとどう映るのかが個人的には興味ポイント。

取りあえず客席に入ると既に学者風の演者が舞台脇の机の前に座っており、なにやら書き物をしている。開演時間になるとかかっていた蓄音機の音が大きくなってゆき、それを替えに来たお婆さんがかけたレコードがカルメン。で、その二人の掛け合いのダンスが不意に始まり実際の舞台が始まる奇抜な開幕。ストーリーはこの学者がホセから聞いた話を書き記す内容が舞台上に展開されてゆくという体で行われてゆく。音楽はビゼーのカルメンを声楽抜きの管弦楽編曲にしたもの(誰の編曲を使っているかはクレジット無し)が使われていた。舞台の印象としては、音楽とのシンクロをとても意識した振り付けで、ダンサーの動きを音楽の大きな転換部分に上手く会わせていたり、パーカッションのコミカルなサウンド(これは原作には無いイメージだと思うけど)に上手に振りを当てていたり、唯一、ダンサーが発する笑い声もスイッチを切るかのごとくカットオフしている部分があったりとか、効果的な演出が色々あって面白かった。あと、縁者が手でセットを押して舞台転換迄やるというのは、オペラじゃ見ないよなあとか、話に直接関係のない出演者(クマとか・・どうしてあれは休憩時間にも舞台につながれていたんだろう?)が出てきたり、話の進行に関係ないダンスがあったりとか(まぁ、これはオペラだって関係ないバレエが出てきたりするばあいもある訳ですが)、舞台を膨らませる為のノイズがとても上手に使われていたという事も言えるのかもしれない。

こういう舞台って、いいよなと思ったのは実はオペラとかの場合はヨーロッパで行われている舞台が、ある種オリジナル的な物として、規範的に作用すると言う側面があって、日本でオペラを行うに際しても常に本場の物を意識しながらつくらなければいけないというところがあるのだと思うのですが、この舞台は多分そんな事は考えていないだろうというところ。要するに、とても自由。今回のカルメンは、野生的を超え野獣的なカルメンという設定と、原作の小説に立ち返って物語を再構成してゆくというきわて意欲的な舞台。カルメンのミカエラに対する微妙な対応とか、カルメンやミカエラの情緒、情動表現はやはり日本人的な何物かを感じさせる演技だったけれど、それはスペインという舞台設定にとくに違和感を感じさせないのは、この舞台がある意味とても創造的な舞台だったからなのだろうか。

小説とオペラと舞踊の意味って何かとか、伝統とか創造って何かとか色々考えさせられる舞台だったけど、雨の降る中、横浜まで見に行って良かったと思える公演でもあった。

劇的舞踊『カルメン』 再演 神奈川公演